アジアブログ

 

 
 

2011年11月8日 【ベトナム】
日本はアジアで“刎頸の交わり”をいかにつくれるか

株式会社カナリア書房 代表
Brain Works Asia co.,Ltd
佐々木 紀行



1985年3月20日、イラクのサダム・フセイン大統領は
イラン領空を通過する航空機に対しても、安全を保障しない通告を各国に発令した。
5年前から始まったイラン・イラク戦争の様相は泥沼化し、
ついにイラン国内の民間人居住区も爆撃の対象に加えられるようになっていた。
日本政府は日本の航空会社に対し、在留邦人の救出を要請するが、
イランへの乗り入れを行っていなかったJALもANAも、
この要請に応えることができなかった。
代わって、この危険な状況の中、
在留邦人を救うためイランの地に飛び立ったのは、トルコ航空だった。

 

トルコがなぜ、日本を救いに? 
その答えは当時から約100年前、
日本海域で発生したひとつの軍艦遭難事件に端を発する。
当時のオスマン帝国(現在のトルコ)の派遣した軍艦エルトゥールル号が
現在の和歌山県沖で岩礁に衝突し、遭難した。
乗組員の多くの人命が失われる中、現地の住民により救出されたのが69名。
この69名は日本政府の命により、オスマン帝国の帝都イスタンブールまで
丁重に送り届けられた。
その後、トルコ共和国となり、
国交を樹立してからもトルコはこの恩義を忘れることはなく、
日本と親密な関係を築き続けてきた。
そして、冒頭の危難に対しても、かえりみず、航空機をイランの地まで飛ばした。

 

すべてが、上記の如く、美しい友情物語とはいくまい。
しかし、結果として考えれば、日本とトルコはお互いに苦しいときに助け合う、
という関係を構築できているといえるだろう。
そして、最近のニュースの中でも、こんな日本とトルコの関係を
結ぶことができる可能性を日本とベトナムで感じている。
しかし、これは日本の心意気次第ともいえよう。

 

東日本大震災以降、日本の原子力政策は完全に自信を喪失したといえよう。
大震災以前、日本はどうだったか? 
国家政策として、世界最高峰といわれる原子力技術を輸出産業に育て上げ、
次世代の新たな日本のプレゼンスの確立を目指していた。
ところが、そのシナリオは3月11日で崩壊した…日本人はそう実感しているだろう。

 

世界を俯瞰してみても、反原発の傾向は顕著だ。
日本の様を見て、原子力政策を見直す国も多く現れる。
そのような潮流の中で、ベトナムは明らかに異なる動きを見せている。
たとえば、ズン首相が来日し、大震災前から既定路線だった日本との
原子力開発事業を原則として継続する声明を出している。
自信を失いつつある日本にとって、
ベトナムのエールは心に染みるものになっておかしくない。
さらにいえば、インドも同じような協力関係の声明を出している。

 

苦しい状況下である日本にとって、
それでも自らの技術を頼りにしてくれていることがどれだけありがたいか。
もちろん、政治的な意図があってのことだろう。
しかし、そんなことは承知の上で、このエールに応える心意気が欲しい。

 

ところが、日本の反応はいささか異なる。
ある地方新聞の社説を見ると、“日本は他に輸出するものがある”
というメッセージが発せられている。確かにそうかもしれない。
しかし、そうはいっても大震災前の日本の状況は原子力政策で、
“欧米、韓国に負けるな!”と一本やりだったはずだ。
そして、日本国内では代替エネルギーについて論じられることが多くなった。
しかし、ベトナムやインドという国は、これから経済成長を果たしていく国家である。
日本と異なり、電力が足りない。
大震災後、日本国内でも電力問題にフォーカスがあたっているが、
アジアの国々と比べれば、問題の質が異なる。
改善されつつあるが、今でもベトナムでは突然の停電は発生している。
一方、日本は節電中と言いながら、
東京はどこの都市よりも明るく、きらびやかだ。
このことを日本人は忘れてはならないと思う。

 

中国の故事成語に『刎頚(ふんけい)の交わり』という言葉がある。
お互いの首を切られても後悔しない仲という意味で使われている。
苦しいときにこそ、友が頼りになる。
日本がアジアでいかに『刎頚の交わり』を増やしていくか。
それは、今、日本へ寄せられるエールにいかに応えていくかにかかっているといえよう。
日本が、日本人が、いかに心意気を見せるか。
国家百年の計を見据えた、国家関係を築くタイミングは今しかない。



 


著作権について

本サイト内の記事、コンテンツ類の無断転載、複製および転送を禁じます。このような運営の妨げになる行為に関しては、損害賠償を求めることがあります。